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中国紀元 西歴 歴史事項
明洪武 五年 1372年 行人楊載は、太祖が元号を建てる旨の詔を中山王などに告げ、往路の途中で必ず釣魚諸島の島々を通過する。その後嘉靖年間まで計十回冊封使を遣わすが、公文書保存所が「回禄の変に遭い、焼けてしまい、残存するもの無し」。
七年 1374年 靖海侯呉禎は、聖旨を奉じ舟師を率いて海上を巡邏し、福建の「牛山洋において倭寇に遭遇」、釣魚諸島海域に沿って、「倭寇を琉球大洋まで撃退、捕虜を京師に献ず」。その後五百年来、琉球人から称賛。
明永楽 元年 1403年 著作不明者が「長い年月が経ち、破壊された」「古書」を基にして、整理訂正した『順風相送』(注:英国ァ∶クスフォード大学ボドレアン図書館に所存)では、「北風が吹き、東涌から出航する時は、甲卯の針を用いると彭家山に方向を取る、甲卯及び単卯の針を用いると釣魚嶼に方向を取る。南風が吹き梅花から出航する時は、乙辰の針を用いると小琉球に方向を取る、単乙の針を用いると釣魚嶼の南辺に方向を取る、卯の針を用いると赤坎嶼に方向を取る……」と、初めて釣魚嶼、赤坎嶼(赤尾嶼)の名を記載。
明嘉靖 十三年五月十一日 1534年6月21日 冊封使陳侃の『使琉球録』は、伝世された公文書として最古のもので、初めて黄毛嶼(黄尾嶼)の名を下記通り記載。五月十日「釣魚嶼を過ぐ、黄毛嶼を過ぐ、赤坎嶼を過ぐ」。「十一日夕方、古米山が見えた。これは琉球に属するものなり、夷人は舟で鼓舞し、帰郷を喜ぶ。同行した副使高澄の『操舟記』も、「古米山を以て琉球の境とする」と記載。
三十五年 1556年 嘉靖帝の「日本国王移諭」の旨意により日本に派遣された鄭舜功は、『日本一鑑。桴海図経。万里長歌』において、「釣魚嶼、小東の小嶼也」と、釣魚諸島が台湾の附属島嶼であることを確言。
中国紀元西歴
四十年1561年明
嘉靖四十一年1562年
七年1579年
三十三年1605年明
万暦三十四年1606年
三十七年1609年
明元年1621年天啓二年1629年
明
崇禎六年1633年
歴史事項
「海岸地理学の権威」である鄭若曾の『鄭開陽雑著』巻一「万里海防図」では、すでに釣魚嶼、黄毛山及び赤嶼を図中に編入。なお、冊封使郭汝霖の『使琉球録』では、「赤嶼は、琉球地方を界する山なり」と指摘、赤尾嶼及びその西側地帯が中国領であることを確認。
明の抗倭最高軍政長官である胡宗憲と地理学者鄭若曾の編纂した『籌海図編』では、釣魚嶼、黄毛山、赤嶼などの島嶼を防衛対象区域に編入。
冊封副使 ·謝傑の『琉球録撮要補遺』では、「往路は滄水より黒水に入り、帰路は黒水より滄水に入る」と記載、中国と琉球との境界線は赤尾嶼と久米島の間の「黒水溝」(今沖縄トラフ)であることを指摘。
吏部考功司徐必達は、「嘉靖時東南被倭最酷、而迩来関白豪強(豊臣秀吉を指す)輒剥我膚」に鑑みて、『乾坤一統海防図』と題記。釣魚諸島はいずれも我国の版図にあり、今の台湾基隆以東の海面に位置。
明朝の冊封使 ·夏子陽は古米山が琉球西側の辺境と琉球人の確認を再度記載、「望見古米山,夷人喜甚,以為漸達其家」。更に、「水は黒水を離れ滄水に入る、必ずやこれ中国の境界」と強調。
この年、薩摩藩は琉球に侵攻し、人を派遣して琉球領土を測量したが、釣魚諸島への測量は言及されなかった。
茅元儀は「倭変を感じ、兵家の学を究め」、『武備志』を編纂し、その「海防。福建沿海山沙図」は『籌海図編』の翻刻として、釣魚嶼、黄毛山、赤嶼などを「沿海山沙図」に編入。
兵部職方司の職であった茅瑞徴は、『皇明象胥録』の中で、「福建から(琉球に)行くと……古米山が即ち琉球の国境なり」と再度指摘。
冊封使。杜三策の従者胡靖が撰した『杜天使冊封琉球真記奇観』では、琉球辺境の古米山に到達した時に歓迎された盛況ぶりを記述。『琉球図』では、古米山を以て界とする。
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明崇禎 十三年 1640年 中山王尚豊は、諮問の中で、琉球と福建との隣接関係を、「照得琉球世守東隅、休戚相関、毘連福建、壌綿一脈、天造地設、界水分遥」と指摘。
?年 ?年 明末、施永図編纂の『武備秘書』は、『籌海図編』「万里海防図」を簡略化し、巻二「福建海防図」に倭寇防衛のために釣魚山、黄毛山及び赤嶼等を中に収録。
清順治 七年 1650年 琉球親日派の首領である羽地朝秀(向象賢)が撰した琉球史書『中山世鑑』では、陳侃『使琉球録』の中の道中記載を全文収録し、「古米山が見えた。これは琉球に属するものなり」の内容も収録。
清康熈 二十二年 1683年 冊封使汪楫の『使琉球雑録』では、「問[郊]之義何取?曰[中外之界也]」とあり、再度、赤尾嶼と久米島の間の「黒水溝」は即ち沖縄トラフであることを明言、当地を中国、琉球の天然の境界と指摘。
四十年 1701年 琉球より派遣された蔡鐸の進呈した『中山世譜』及び地図に添付された説明では、「三十六島」の名称を詳しく列挙していたにもかかわらず、釣魚諸島はその中にはなかった。
五十八年 1719年 冊封副使。徐葆光は、琉球王府から提供された公文書及び地図を基に、琉球側と共に研鑽した後、『中山伝信録』を完成。そこでは「八重山 ――此琉球極西南属界也」、「姑米山 ――琉球西南方界上鎮山」と明示。『琉球三十六図』では、古米山の西の中国領を果てしない海として描かれていた。「海」は中国古代において境界線を描く伝統的な方法である。
六十一年 1722年 巡視台湾御史黄叔璥の『台海使槎録』巻二「武備」では、台湾府水師船艇の巡邏航路と沿海歩哨所を列挙、「山後大洋北、有山名釣魚台、可泊大船十余」と強調、指摘。
清乾隆 十二年 1747年 范咸等作の『重修台湾府志』及び乾隆二十九年(1764)余文儀等の『続修台湾府志』では、共に「前志、草創、多失之略」と指摘の上、特に「前志は海防事情を載せずして、今特別に記入す」と強調し、同時に巻二「規制。海防。附考」で、黄叔璥の上述釣魚台に関する記載を全文転載。
中国紀元
二十二年
清乾
三十二年隆
五十年
五年
清嘉十三年慶二年清
同治十年
清五年
光緒
清
六年光
九月緒
西歴
1757年
1767年
1785年
1800年
1808年
1863年
1871年
1879年
1880年10月
歴史事項
冊封副使周煌の『琉球国志略』では「(琉球)環島皆海也、西距黒水溝与閩海界」と記載。献上された『琉球国全図』では姑米山を境とし、その西の赤尾嶼。黄尾嶼は一切編入されなかった。
乾隆帝の勅命を受けたフランスの宣教師蒋友仁(Michel Benoist)により製作された『坤輿全図』では、好魚須即ち釣魚嶼と、懽(歓)未須即ち黄尾嶼と、車未須即ち赤尾嶼の着色が中国本土。台湾の赤黄色と全く同じであり、琉球本土及び三十六島は逆に深い緑色で着色。
日本天明五年、仙台の林子平により製作された『三国通覧図説』「琉球三省並三十六島之図」では、釣魚台、黄尾山、赤尾山を中国本土と同じ色で着色。
冊封使趙文楷の『槎上存稿』では、「十一日見古米山(近琉球矣)」と記載。
冊封使斉鯤は、「(黒水)溝」の所在位置を、「[潤五月十三日]午刻見赤嶼、又行船四更五、過溝祭海」と的確に記載。同時に『航海八咏』の題の下に「此山入琉球界」と注記。
湖北巡撫官修の『皇朝中外一統輿図』は、康熙及び乾隆年間の内務府皇室輿図を基に製作され、図中の釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾山の名称標識法は中国本土と一致。
道光年間に編纂された『重纂福建通志』八十六巻では、釣魚台を海防の要衝として列記し、台湾府葛瑪蘭庁(今台湾省宜蘭県)の管轄下に編入。
この年、日本が琉球藩を廃し沖縄県とする直前、琉球の紫金大夫向徳宏は、中国に「弊国に兵を派遣し、日本の侵入を防御する。前の明の洪武七年間(1374)臣の呉禎に命じて沿海の兵を率いて琉球防衛へ至らしめる旧事のごとき、日本に覬覦の念を絶たしめる。」と請願した。更に、日本外務卿の寺島に送った書簡の中で、琉球は三十六島であるとして、久米島 ‐福州間に「連綿と」ある島嶼は中国所有のものであることを再度明言。
日本の駐清公使宍戸璣が中国総理各国事務衙門に対して出した「琉球分島」案では、「大日本国将琉球南部宮古、八重山両島、属之大清国管轄、以清両国境界」と主張し、当時中国――琉球間にはもともと「無主地」が存在しなかったことを証明。
中国紀元
十一年
七月二十八日
八月十三日
清
八月十四日
光緒 十一年九月六日
九月十四日
九月二十九日
十月二十八日
西歴
1885年
9月6日
9月21日
9月22日
10月13日
10月21日
11月5日
12月4日
歴史事項
日本人古賀辰四郎は中国側許可を経ずに、無断で釣魚島に立ち入り、鳥の羽及び海産物を採集すると同時に、沖縄県に対し釣魚島の「租借」を申請する。同年、日本内務省は沖縄県大書記官森長義に対し、密令を発し、陰で釣魚諸島を踏査させ、同時に国標建設を計画する。
上海『申報』は「台島警信」と題して、日本が釣魚諸島の占拠を図っていることを「台湾北東部の島で、最近日本人が日本の旗をその上に掲げ、島を乗っ取らんばかりの勢い」と暴露。
沖縄県五等属の石沢兵吾は県令西村捨三に対し、久米赤島は即ち『中山伝信録』の中に記されている赤尾嶼で、久場島は即ち黄尾嶼で、魚釣島は即ち釣魚島であることを報告。
沖縄県令西村捨三は、内務卿山県有朋に上申し、当該島嶼は「既二清国モ旧」中山王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルナミナラズ、夫々名称ヲモ付シ、琉球航海ノ目標ト為セシ辞事明カナリ」と認識しており、内務省の密令は「踏査直二国標取建候モ如何ト懸念仕候」とした。
『京報』が掲載した二つの詔では、総理海軍事務衙門設立及び福建巡撫を台湾巡撫に改める(即ち台湾府を省に昇格する)ことを決定。この事は日本の駐清臨時公使島田胤則と駐天津領事波多野承五郎より直ちに外務省に密報。
外務卿井上馨は山県有朋に密かに返信し、新聞に載っていた「「台湾」東北辺之海島」は「台湾近傍清国所属島嶼」であるとし、「清国ニハ其の島名モ付シ」、「近時、清国新聞紙等ニモ、我政府に於テ台湾近傍清国所属ノ島嶼」ヲ占拠セシ等、風説ヲ掲載シ、我国二対シテ猜疑ヲ抱キ、頻二清国政府ノ注意ヲ促シ候モノモ有之候」と叙述。国標建設を延期するものの、密かに踏査を行うが、「官報并ニ新聞紙ニ掲載不相承候」と主張し、この事は、「他日ノ機会二讓候方、可然候存」と叙述。
沖縄県は再び山県有朋に指示を請う。
内務卿と外務卿は連名で沖縄県令に「書面伺之趣、目下建設ヲ摇』ザル儀ト可心得事」と指示。
中国紀元 西歴 歴史事項
清光緒 十二年 1886年 沖縄県令西村捨三の『南島記事外編』及びそこに付せられている『琉球三十六島之図』では、釣魚諸島の島々は一つもなく、即ち、西村捨三は釣魚諸島が沖縄領ではないことを十分承知。
十五年十二月二十二日 1890年1月13日 沖縄県は再度国標建設の指示を請う。
十九年九月二十四日 1893年11月2日 沖縄県知事は三回目に管轄標杭建設の指示を請う。
清光緒二十年 二十年 1894年 古賀辰四郎より提出された9年前の釣魚島租借の申請は、沖縄県より却下処置。
七月一日 1894年8月1日 日本の朝鮮駐留軍は中国軍を突然襲撃し、清朝政府は日本に対する宣戦を迫られる。
八月十六日 9月15日 清陸軍は平壤で敗北。日本軍はまもなく鴨緑江を渡江し、九連城と鳳凰城などの地を陥落。
八月十八日 9月17日 黄海大戦北洋海軍は甚大な被害を被る。日本陸軍の一部は海路を経て、金州、大連、旅順等を陥落。
十月 11月 11月初め、敗北が既に明白になったことを考慮し、李鴻章は奏上により天津海関税務司デットリングを日本に派遣し和議を望もうとしたが、日本側が拒否。
十二月一日 12月27日 日清戦争の大局が既に決し、日本側の勝利が確実であることを見て、日本内務大臣野村靖は、遂に外務大臣陸奥宗光に書簡を送り、「今や昔とは情勢が異なる」と述べ、釣魚島に国の標識を立て、版図に組み入れることについて、閣議で審議で決議することを提案。
十二月十六日 1895年1月 11日 外務大臣陸奥宗光、野村の釣魚諸島占拠計画の実施に同意。
十二月十九日 1月 14日 日本内閣で、決議が可決。
中国紀元 西歴 歴史事項
清光緒 二十一年 二月 1895年3月 日本軍、牛荘を陥落。
三月 4月 日本軍、澎湖を陥落。
三月二十三日 4月17日 「馬関(下関)条約」調印。
四月十七日 5月8日 中日両国は北京において、批准文書を交換。台湾民衆が台湾割譲に反対し、蜂起。
四月十九日 5月11日 明治天皇は有地品之允を征台(後に[常備]と改称)艦隊司令官に任命し、台湾総督樺山資紀のもとで勤務。
五月六日 5月29日 「午前九時、樺山資紀総督先二尖閣島(実は花瓶嶼)ノ南方約五海里ノ処に至ル」。正確な位置は北緯 25°20′、東経122°。
五月十日 6月2日 21時、「台湾引渡事務は完全に終結」。
五月十八日 6月10日 古賀辰四郎は、「馬関(下関)条約」発効の機に乗じて、「この度は果断にこの島(釣魚島を指す)を日本所有にするべきである」と述べ、釣魚島の「租借」を申請し、翌年の九月政府からの認可を取得。